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友だちの手助けで、僕自身の酒の問題が見えてきた アルコール Jさん(40代、ゲイ)

Jさんは、アルコールをそれなりに飲めたからこそ、お酒の席が自分の場だと認識して楽しんでいたつもりだった。しかし実際は、度を超えて飲み続けたことが、金銭トラブルへとつながっていた。逃げ場であったはずのお酒自体に問題があるとは思えず、事態は深刻化していく。アルコール依存症だと認めることの難しさはどこにあるのか。それに周囲の声はどのように気づかせてくれたのか。

親の気持ちを読み込むタイプ

リカちゃん人形が買って欲しくても素直に言えない子どもでした。自己表現、感情表現がうまくいかないというか、ありのままの自分で生きていていいんだとは思えず、小さい頃から自分のことをカムフラージュして生きてきました。
いま思えば、そういうことが、社会に出てからの行き詰まった感覚と、そこからのアルコール依存につながった気もします。

少しずつ問題化するアルコール

アルコールはある程度飲めたので、最初は、高校、大学の同級生と会う時の楽しいツールでした。お酒の場は自分の場だと感じていました。
お酒の関わりがいびつになっていったのは、ゲイバーに行き始めてからです。24、5歳の時、バイト感覚で週末だけゲイバーで働き始めると、お店のスタッフはタダで飲めるから、何も考えずにガーッと飲むようになってしまった。記憶を失くしながら飲んでいる時も。それ以降は、普通の飲み方ができない状態になりました。翌日仕事に行かないといけないのに、有給を使って休む前提で飲みに行ったりもしていました。
飲んだ後自分の家に帰れなくなって、その当時付き合っていた相手の家に押しかけていったこともあって。そうしたら彼に「こっちに来ると思った」と言われ、そのあとセックスしたら、ハッテン場(男性間で性交渉する場を提供するお店など)でやっているみたい、と呆れられた。飲み方がひどすぎて、自分の一方的なやり方でセックスしていたんですね。
26、27歳の頃から、お金にも問題を抱えるようになっていました。リボとかマイカーローンが滞納気味になっていた。それで、職場の忘れ物や互助金のようなお金にも手をつけてしまった。こんな状態になってしまうのは、その当時は生き方のルーズさ、自分のだらしない性格のせいかもなと思っていて、お酒のせいだとは考えていませんでした。いま思うと、お金はほとんどお酒か酒付き合いに使っていたような気がします。

口では言ってもやめられない

それでも、自分はお酒を飲んではいけないとはどこかで思っていたんでしょうね。 東京に来たのは30歳くらいのときですが、最初は、二丁目にも行きませんって言っていました。行ったら昔のようにきっとお酒にはまっちゃうだろうから、近寄らないようにしていた。当時は仕事に対しても野心がありましたから、仕事で成功するには二丁目や酒場は足かせになるんだろうなとはどこかで思っていました。
結局、友だちに誘われて、ほいほい飲みに行ってしまった。ただ、たとえ誘われなくてもきっと何週間後には飲みに出ちゃっていたでしょうね。
30代の時には、遠くの知り合いに送る年賀状に、お酒飲みません、運動します、勉強します、みたいなスローガンを書いているんです。そういうことを全体的にがんばっていればうまくいくって思っていたのかも。だから、アルコールにはまっているという意識はなくても、問題としては認識していたんでしょう。でも、そういうスローガンを二丁目の人には言わない。その時身近だった二丁目で宣言しないということは、やっぱりお酒をやめる気はなかったんでしょうね。依存症からくる問題は起きているはずなのに、問題とアルコールを関連づけられませんでした。
東京ではだんだんお酒のつながりだけになっていきました。

500万近い借金

東京に来てから、お金の問題はさらに悪化していきました。見栄でお金を払うからどれだけ借りても足りなくなり、サラ金にも手をつけてどんどん回らなくなる。借金は最大で480万円くらいまでいきました。
その頃、長年の母親のギャンブルが原因で実家の家を手放すことになりました。父親はお酒でひっくり返って病院に運ばれ、結局飛び降りたのか事故なのかわからない形で亡くなりました。アルコール依存は元からあったはずだけど、こうしたいろいろな状況が、拍車をかけていったと思います。自己破産して過払金が戻ってきても、それを2, 3カ月で飲みに使ってしまったほどです。ゲイバーという酒場も必要だったし、お酒は自分の応援団、逃げ場だと感じていました。酒に頼る生き方でした。
お金を稼ぐつもりで自分で飲み屋を開きましたが、結局これも、お酒を飲めるからというのが潜在的な理由だったと思います。飲めて働けるなら素晴らしい、みたいな。お店で売上が上がるとそのお金で他のお店に飲みに行っていました。結果として、売上はむしろゼロというかマイナス。家賃も払えず督促が来て、2年弱でお店をたたみました。
体はげっそりしていまより10キロは痩せていたし、本当に骨だけという感じ。精神はもともとぼろぼろで、飲んでいる時は明るくなるけど、素面になると、飛び降りてミンチ状になって死にたいと考えることもありました。店をやっていた時は、このまま人生が終わっていくかもしれないと思っていましたね。

手を差し伸べてくれた友人

店をたたんだ後も、当時のパートナーがやっていたお店に出入りして飲む日が続きました。そこでは、10年近く親しくしていた女性や近隣の友だちに会っていました。
パートナーもその当時、特に重い精神的な問題を抱えていました。そのことについてお店で話していたときだと思いますが、「彼のことはもちろん心配だけれど、あなたもアルコール依存症かもしれないから、一度彼と一緒に病院に行ってみたら」、とその女性の友人が私に言ったんです。彼女は看護師で、うつの闘病経験が自身にもあった。それで、信頼できる病院の紹介もその場でしてくれました。また別の友人も、「自分も心配で診察を受けたことがあるよ。質問に答えたりするだけだから、調べてもらったら」と軽い調子で言ってくれました。その後、その看護師の友人は、アルコール依存症から回復した人の体験談を聞くイベントに誘ったりもしてくれました。
そして、依存症と診断されました。それでも1カ月ほどお酒を飲み続けたのですが、そのうちに、「このまま飲み続けたら死んでしまう」と実感するようになって。「酒で死にたくない」と思うことができ、やめるための行動を始められました。それから、アルコール依存症の自助組織や、お酒や薬への依存から社会復帰をしていくための中間施設に通うようになりました。何度かスリップしたけれど、プログラムに則ったことを仲間と一緒に続けるうちに、ようやく元気になってきたのが、いまです。それまでは、お笑い番組を見てもちっとも面白くなくて、感情的に笑えませんでした。電車に乗っていても呼吸がうまくできず、ハアハアしている時期や、うつを抱えていたときもありました。自分の場合は、いまこうして笑えるようになるまで、6年くらいかかっています。

【もしいま同じような境遇の人に相談されたら】

どんなに自分自身が問題を抱えていても、その原因がお酒にあると認めるのは難しいです。
自分の場合は、働くことも、お金のことも、何もかもうまくいかないどん底で、自分の影響でひどい精神状態になってしまったパートナーや、自分の現状をきちんと見るよう促してくれた友人の存在があってようやく、状況が変わっていきました。
お酒に依存しているときでも、自分なりにはバランスをとっているつもりでした。状況は悪化しているのにもかかわらず、飲み続ける理由を並べていました。周りからすれば、歪んで見え、筋の通らないことを言っていると感じていたでしょう。人の声を素直に聞くのは、当時の自分には難しいことでした。でも、自分を見て、応援してくれる人がいるのであれば、その声に耳を傾けることができたらいいなと思います。
一人で酒をやめようとして、上手くいかないことは何度もありました。どんなにやめようと思っていても飲んでしまう病気なので、一人でやめることは自分には不可能だったのです。本当に酒を手放して生きていこう、生きていけると思えるのは、同じ依存症の仲間の体験談を聞いて、自分も同じだと感じられた時です。自助会やデイケア、中間施設で仲間と会うことをお勧めします。

 
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